第51話 ペットショップと本屋さん

小学校の卒業アルバムに、将来なりたいものは、ペットショップと本屋さんと、書きました。私にとって、動物も本も、同じように、自然に好きなのです。

高校三年生で進路を決めるとき、うちの猫のかかりつけの獣医さんに、動物病院で働くにはどうしたらいいか(獣医は除く)相談したところ、トリマーになるのが近道だよと教えられて、東京の専門学校に行くことにしました。

上京して、学校の寮に入りました。四畳半(あるいは六畳)に台所がついた二人部屋です。学校は、楽しかったです。アルバイトで学費を稼ぎながら、学校では、犬体学やカットの実技などを学びました。ワンちゃん一匹を仕上げるのには、丸一日かかります。私は、午前の部だったので、体を洗って、途中までカットして、午後の生徒に引き継ぎます。専科になると、一日作業ができるので、ワンちゃんを一日一匹、ひとりで仕上げることができるようになります。

この学校には、高校をリタイアした子や、手に職をつけたい社会人など、色んな年齢層の人たちがいました。タイプとしては、力まず流れに乗っていたらそうなった、という人が多く、絶対になってやるぞという気持ちの人はアジアからの留学生、二人くらいだったように記憶しています。

学校を卒業して、東京の獣医さんにすんなりと就職が決まりました。この時代(30年ほど前)、トリマーは、今よりも、社会的地位がしっかりとしておらず、雑用をする人というイメージでした。けっこう使い捨てのようなところもあり、就職口は割とあったのです。新しい職場では、犬舎の掃除や看護助手の仕事がメインで、トリマーの仕事は、依頼が入ればやるという感じでした。犬の毛をトリミングしようと思うこと自体が、少ない時代だったのだと思います。ですが、年末の一週間は、予約がいっぱいで、獣医が手伝っても、連日、夜遅くまでかかりました。

就職して二年後、結婚するため退職しました。住まいが遠くなるというのもありましたが、特に、仕事を続けたいとは思わなかったのです。その後、子どもを育てながら、パートの仕事もしました。本屋さんの仕事なんですよ。辞めてからは、トリマーの仕事はしていませんが、猫を飼っていました。最近、亡くなってしまいましたが…。元捨て猫で、茶トラです。

うーん…、動物や小説が好きなのも、トリマーの仕事を辞めたのも、強い理由があったんじゃなくて、自然な気持ちです。私の人生は、波乱万丈では全然ないんです。

(昭和60年代・東京都)

第50話 イワシのこんか漬け

イワシのこんか漬け、というものがある。おふくろが、よく作っていた。春、たくさんのイワシを買ってきて、臓物をきれいに取り、塩漬けにし、そのあと、ぬか漬けにし、発酵させる。

食べ物が少なくなる冬になると、秋に収穫した根菜を(わらで室を作り土をかけて保存しておいたもの)千切りにし、イワシのこんか漬けをほぐしたものと合わせて、鍋でぐつぐつ煮込む。味付けは、酒かすと味噌と、こんか漬け自体の塩っけ、だったんじゃないかな。えんなか(囲炉裏)で湯気をたてるそれを、みんなでつまんで食べるのは、なんともうまかった。この料理は、「かぶし」と、呼ばれていた。母の里からもってきたものらしい。あれ以来、食べていない。今食べてみたら、どうだろうか。

(昭和20~30年代・石川県)

第49話 イワシの天日干し

イワシが獲れる暑い夏の季節、僕がまだ寝ている朝、おふくろは、歩いて20分ほどの港に行って、漁師の手伝いをする。駄賃代わりに魚を分けてもらうと、家に持ち帰って、身を開き、臓物をとって、塩をかけ、畳半分ほどの、蚕をのせるための平らな竹のざるに並べる。それを、梯子を使って、瓦屋根に持って上り、夏のおてんとさまの日差しが強い中、天日干しをする。魚を並べたざるの頭上には、カラスがいたずらをしないように、「脅し」として、鎌を縛り付けた竹竿を、立て掛けておくのだが、これは、カカシみたいなものだ。

そうして干したイワシを、焼いて食べると、香ばしくて、脂がのっていて、とてもおいしい。あの味は、今も、忘れられない。だから、魚は、生や煮たものより、干して焼いた物の方が好きだ。焼いた魚を、あたまからかじるのが良い。

(昭和20~30年代・石川県)

第48話 猫のミーちゃん

家の前の駐車場に、大勢のカラスが集まっていたので、不思議に思って見てみると、止めてあった車の下に、子猫がいるのが見えました。水たまりの中に、黒いなにかがむくむくと伸びていて、(それはまるでジブリ映画のワンシーンの様でしたが)、そこから、ミーミーと鳴く声が聞こえてくるのです。近寄って、その子猫を抱き上げてやると、まだ目も明いておらず、体はびしょびしょに濡れています。どうやら、水たまりは破水の跡で、母猫は、生まれたばかりの子猫を置いて、どこかへ行ってしまった様子でした。

保護した子猫は、ミーミーとよく鳴くので、ミーちゃんと娘が名付けました。30分おきに鳴きだすので、その度に、猫用ミルクを与えます。小さな体を支えてあげて、小さな注射器で、飲ませてあげるのです。獣医さんから、北海道は春でも冷えるので温めてあげるようにと助言を受けて、人肌のお湯の入ったペットボトルを、そばに置いてあげました。

娘に猫アレルギーがあるため、新しい飼い主を探したところ、友人の友人が手を上げてくれました。ミーちゃんは、2日間、家で保護していましたが、手放すとき、娘は泣いていました。

それから、しばらくして、友人からミーちゃんが亡くなったことを聞きました。引き渡した後、ミーちゃんの体調が悪くなり、獣医さんに見てもらうと、頭蓋骨が割れている、と診断されたそうです。獣医さんが言うには、親猫はその子が育つか育たないか分かるから、置いて行った時点で、もうだめだったのかもしれないね、とのことでした。今思えば、ずっと鳴いていたのは、調子が悪かったからかもしれません。

久しぶりにミーちゃんの写真を見つけて、このことを、思い出しました。ミーちゃんは、すっごくかわいかったです。ものすごくかわいかったです。

(平成15年頃・北海道)

第47話 ふたりは一緒

ラブラドールレトリバーのカブちゃんと父は、『ふたりは一緒』って感じでした。

ふたりの出会いは、カブちゃんの災難から始まります。黒い犬が欲しい、と、弟の彼女は、ブリーダーに言ったのに、いざ、犬がやってくると、飼わない、と言い出し、弟が、じゃあうちで飼う、と宣言し、両親の反対を強行突破して、家で飼い始めたのですが、その弟が、半年後、一人暮らしをするというので、カブちゃんを残して、家を出てしまったのです。

はじめは仕方なく、弟の代わりに散歩をするようになった父ですが、カブちゃんをすごく、かわいがるようになります。カブと父の暮らしが始まったのです。それからのふたりは、いつも一緒。カブちゃんは、かしこく、優しく、飼い主のいうことも、うんうんとうなずいて、わかろうとしてくれる犬でした。

十数年たって、カブちゃんの体に腫瘍ができました。だんだんと弱くなり、歩くことも難しくなりました。私が帰省した時はいつでも玄関まで出迎えてくれたカブちゃんですが、動くこともできませんでした。それなのに、私が帰るときになって「じゃあ、またね。また来るね。」と声をかけると、動いて、見送ってくれたのです。

カブちゃんは、最期、家族のうでの中で、静かに息を引きとりました。目から涙を流して。

(平成10年代~20年代・北海道)

第46話 狸じゃなくて犬だった

札幌のおばから聞いた話です。雨が、ジャージャー降っていた日、車を運転していたら、山の中から、狸が飛び出してきました。車を止めてよく見ると、狸はワンワン吠えています。どうやらそれは、狸じゃなくて、真っ黒に汚れた犬のようです。おばは、それを連れて帰り、体を洗ってやりました。きれいになったそれは、かわいいポメラ二アンでした。

その後、劣悪な環境下で犬を繁殖させていた業者が摘発され、それがちょうどその山の辺りだったため、(おばが拾ったポメラ二アンは)そこから逃げてきたのかね、と、おばは、話していました。

あれから15年ほどたった今では、ポメラ二アンばかりを3匹、おばは飼っています。

(平成15年頃~平成31年・北海道)

第45話 野ウサギ追いし

冬のうっすらと雪が降り積もった小山を、僕らは、一斉に大声を上げて、よじ登っていきます。一方、山の頂上では、網を張った人が待っています。逃げ込んできた野ウサギを、押さえるためです。

これは、中学時代の学校行事の一つです。この時代、生活の足しや住民の利益になるような学校行事が、けっこうよくあったように覚えています。

男子学生が(百名ほどいたと思いますが)、山裾の周りをぐるりと囲むように配置され、それぞれが、山の上の方に向かって、ウサギを、追い込んでいきます。山は、鏡モチのような形をしていて、高い木は無く、落葉した低い雑木と笹ばかりで、見通しもよく、生徒らは、道のない斜面を、木などにつかまりながら、ワーワーと大声を上げて、登っていくのですが、実際、ウサギのすがたが見えるわけではなく、皆、ただやみくもに、叫び声を上げているだけなのです。そのうちに(収穫があったかどうかは別にして)、終わりー!のかけ声が聞こえてきて、終了になります。この行事は、年1~2回ほど、ありました。

僕の住む地域は、漁業が盛んで、肉が出るのは盆か正月くらい。肉の値段も高く、おそらく、収穫した野ウサギは、給食の足しにしたのではないかと思います。でも、足しになるほど、収穫があったかどうか、わからないのですが…。

(昭和30年前後・石川県)

はじめに

このブログは、動物と人に関するエピソードを、話者より聞き取り、それをもとに、再構成したものです。人の記憶の中にある風景や、動物と人の関係を、イメージの中で、共有できましたら幸いです。

あくまでも話者の記憶に基づいておりますので、客観的事実と異なる場合があります。また、今日からみれば、適切ではない行為も含まれますが、個人の記憶の記録であることを考慮し、掲載しています。


第44話 タロウの脱走

小学生だった兄が買ってきたニホンイシガメのタロウは、約40年間、両親が経営していた八百屋の前に置かれた桶の中で、たまに脱走し、冬になるとワラをかけてもらって冬眠し、毎日、桶も砂利も洗ってもらって、大事に育てられてきました。母は、タロウをすごくよくほめるんです。顔だちもいい、色もいい。確かに、タロウの甲羅は、40年の年月分、黒々と渋く光っています。

去年、両親は、仕事を引退したのを機に、タロウを家の中で、放し飼いで、飼い始めました。タロウにとっては、初めての家の中での冬。家の中は、暖かくて明るい。40年間、外の桶で冬眠していたタロウは、戸惑っていたのかもしれません。1月の3週目ごろから、タロウの気配が、部屋から消えました。両親は、部屋中を探しました。でも、見つからない。心配でしかたがない。そこで、私が、捜索を依頼されたのです。

タロウは、オーブントースターの奥の、棚の下にいました。まるで石ころのように、埃まみれの状態で。私は、孫の手を使って、タロウをひっぱりだし、お水を張った桶の中に入れました。するとタロウは、いきおいよく、ぶくぶくぶくっと水を飲んで、それから、両手で、汚れた顔を洗いました。そうして身なりを整えると、タロウは、桶のはしに手をかけ、首を大きくのばし、うでの力で伸びあがり、桶からの脱走を、また、図ったのです。

タロウは、救助を待っていたのか、それとも冬眠していたのか、果たしてどちらだったのでしょうか。その後も、タロウは、何度も脱走を繰り返し、今はもう、野放しにしているそうです。

(平成31年・東京都)

第43話 こどものうわさ

僕が10歳だったころ、住んでいた町のとなり駅は、動物の名まえがついていました。当時、友だちの間でうわさが流れていました。「あの駅の近くには、と殺場がある。」

最近になって気にかかり、ネットで検索をしてみましたが、そんな事実は載っていません。でも、自分は、見に行った気がするのです。皮を剥がされた動物が、一頭まるごと吊るされて、何頭も、ある!

駅は、無人駅でした。子どもながらに恐ろしかった。あの辺りには近づくな、といった気配がありました。「いやなものが、あるから」と、いう様な。

大人になった今、と殺場ではなく、別のことが、暗喩としてあったのではないかと、なんとなく思います。

(昭和50~60年代)